ニーハオ!ザニーです($・・)/~~~
こんな話があったとします。
これは台朗(たいお)、日朗(にちお)という二人の人物を中心とした物語です。
ある日、台朗(たいお)の家に日朗(にちお)が引っ越してきました。
よくわからない言葉を話し、おまけに気性の荒い日朗。
当初よくわからない住人に台朗は困惑し、両者の間で喧嘩が絶えなかったけれど、月日が経つにつれて争いもなくなってきました。
日朗はいろんなことを知っていて、台朗の家の庭に井戸を掘り、畑を作りました。それに驚いた台朗は、日朗と協力し、家を一緒にリフォームしたり、家の前の道を舗装したりしました。
日朗は喧嘩が強かったので、台朗と一緒にトレーニングをすることにしました。そして、台朗は日朗の話す言葉を勉強するようにもなりました。日朗の故郷で流行っていた野球というボール遊びを覚え、日朗が作る郷土料理や日朗の歌う唄など、日朗から多くの影響を台朗は受けました。
二人の距離は縮まり、いつしか兄弟のような仲になりました。
ある日、日朗が隣人の米朗(こめお)と大喧嘩を繰り広げ、大怪我を負わせてしまいました。
事の重大さから日朗は街中の人たちに嫌われ、街から追放されてしまいました。
日朗はこの一件で色々なものを失い、故郷に戻り生活再建に向けて頑張ることにしました。
日朗がいなくなってからすぐに台朗の家に蒋朗(しょうお)が引っ越してきました。しかし、台朗の家なのに蒋朗が自分のルールを一方的に押し付けてくるので、台朗は気嫌いし、両者の間ではギスギスした状態が続きました。そんな日々の中、台朗は日朗と過ごした日々を大切に胸にしまい、たまに思い出すたびに、再び一緒に暮らしたいと願っていました。蒋朗に対しての嫌悪感が増すたびに日朗との日々をより美化していったのです。
日朗は、故郷に帰り、名誉も財産も失った状態で、地のどん底から新生活をスタートしました。食べるものろくになく、近所には米朗が派遣した用心棒が常に監視しています。とにかく日朗は今回の一件を反省しながら、真面目にコツコツ仕事に打ち込みました。ひたすら前を向いて頑張る日朗の姿を見てか、次第に街中の人の日朗を見る目も変わってきました。元々器用で、真面目に物事に打ち込む性格だった日朗は、いろいろなものをつくるようになり、次第に「日朗のつくるものは良い」と街中に評判が広がり、たくさん商品が売れるようになりました。
それぞれ違う道を歩み始めた台朗と日朗でしたが、たまに連絡は取り合っていました。ちょくちょく日朗が台朗に物の作り方を教えに行くこともありました。
ある日、日頃からたくさん物を買ってくれる支那朗(しなお)が言いました。
「俺は台朗が嫌いなんだ。お前が台朗と仲良くしているのはきにいらねぇ。俺はお前とは長い付き合いがしたいと思ってる。わかるよな?」
要するに敵対している台朗と支那朗。日朗はどちらにつくか決断を迫られたわけです。
日朗は悩みました。
昔から仲の良い台朗との友情をとるか、家族を養うために支那朗との関係を持続させるか。
結果、日朗の決断は支那朗との関係維持でした。その後、台朗とは一切の連絡を絶つことにしたのです。それが功を奏したか否か、日朗は莫大な富を得て、街で一位二位を数えるほどの大金持ちになりました。
日朗は、町内会の常連となり街をひっぱるリーダーとなりました。
街のルールを乱す人がいたら、米朗や仏朗(ふつお)、独朗(どくお)らと一緒に取り締まり、街の人が怪我をした時は、気前よく見舞金を出しました。
周辺の人達からも尊敬され、確固たる地位を築いたのです。
日朗はあの大喧嘩以来、劇的に生活が変化し、多くの人に染まり、多くの物に囲まれ、長い月日が流れ、いつしか日朗にとって、昔台朗の家に住んでいたことは遠い記憶となっていました。
そんなある日、不幸なことに震災で日朗の家が崩壊してしまいました。
何もかも跡形もなくなくなって、大切にしていたものの多くを失ってしまいました。
崩壊した家を見物しに、街中の人が野次馬として集まっています。なかには笑っている人もいました。
そんな悲しみに暮れていた日朗のもとにいち早く駆けつけてくれ、手を差し伸べてくれたのはあの台朗でした。
台朗は、自分の給料そっちのけで、日朗を助けるために大金を持ってきてくれました。それは日朗が精神的にも経済的を立ち上がれるだけの非常に有難い支援でした。
この長年の月日が両者のミゾをつくってしまったのですが、その間も台朗は一途に日朗との日々を忘れることなく、大切に思い続けていたのです。今では日朗と同じくらい野球も上手くなりました。今では日朗に負けないくらいのモノづくりができます。今でも少し日朗が話す言葉を覚えています。
参考:台湾がなぜ親日国かその理由・背景を集めてみた
参考:震災後に台湾がしてくれたことを振り返る
日朗は改めて台朗の存在に気付かされたのです。
いまでも日朗は支那朗との関係を続けながらも、本当は台朗のことが大好きです。
日朗と台朗の関係は切っても切れない関係なのです。
そんな二人の関係にエールを送っているのが支那朗と町内会長の座を争っている米朗だったり。笑
そして、これからもふたりの物語は続くのである。($・・)/
ってここまで読んでくださりありがとうございます。
これは日本と台湾の関係性を例え話に表現したものです。
日朗=日本、台朗=台湾、支那朗=中国、蒋朗=中華民国、米朗=アメリカを指しています。
ざっとおさらいをさせていただきますと、
まず1894年に起きた日清戦争で勝利した日本は、台湾を統治しました。
日本統治時代、日本人は何もなかった原野を開拓し、用水路を渡らせ、台湾の地を開墾しました。台湾人とも協力し、ダムや鉄道整備の建設、その他インフラの基盤をつくりました。
1945年第二次世界対戦終戦後、台湾に住んでいた日本人は一斉に本土に帰還しました。
その後、蒋介石率いる国民党軍が台湾を占領し、台湾の地を中華民国とします。蒋介石は、台湾を統制するために、台湾語、日本語を使用禁止とし、自分たちの言葉を強制的に教育しました。罪のない台湾人のおばあさんが国民党軍にリンチされて殺された二二八事件が代表的で、台湾と国民党軍との争いが絶えませんでした。台湾人はこの時、日本軍の支援を信じた人が多かったそうです。
戦後、日本は戦犯国として多額の賠償金を他国に支払い、アメリカの管理下のなか焼け野原で何もないところから新生活をスタートしました。しかし日本は、製造業を中心に高度経済成長期を迎え、年々国は豊かになり、戦犯国になり貧しかった日本を再び世界は注目することになりました。
日本政府は戦後も約30年間は中華民国との国交を続けていましたが、田中角栄政権時に発足した日中国交正常化(日中共同声明)をきっかけに1972年9月29日、日本は台湾と国交を断交しました。
その後、1968年には国民総生産(GNP)が、当時の西ドイツを抜き第2位となり、この驚異的な経済成長への憧憬や敬意から、日本を手本とする国まで現れました。
以降、世界のトップを走り続けた日本でしたが、2011年3月11日に東日本大震災が発生。2万人近い死者・行方不明者が出て、被害総額は約16兆9000億円に上りました。
震災翌日、台湾政府は世界のどこよりも早く援助隊を派遣してくれて、560トンもの物資、約280億円にのぼる義援金を送ってくれました。
改めて現首相安倍総理は、「台湾は大切な日本の友人」と意を表し、ここ数年日本人の人気の海外旅行先一位に台湾が連続して選ばれています。
日本と台湾は国交こそありませんが、企業、個人では今もなお深い絆で結ばれています。
そしてその絆はこれからも続いていきます。
と、いうことを言いたかったのです(笑)
では本日はこのへんで。
お読み頂き有難う御座いました。
再見($・・)/~~~
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